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仏教における「六道」とは何か?分かりやすく解説します

土佐光信画『十王図』にある三途川の画

土佐光信画『十王図』にある三途川の画

3番目の難関は、「三途の川」(さんずのかわ)です。

最初の秦広王の裁判が終わると、三途の川(さんずのかわ)を渡らなければなりません。三途の川の名称の由来は、「この川を渡るのに三通りの方法がある」というところからきています。

⑴山水瀬(さんすいせ):罪の浅い人が渡るところ。深さはひざ下まで。
⑵江深淵(こうしんえん):罪の深い人が渡るところ。急流で深い。
⑶有橋渡(ゆうきょうと):善人だけが渡れる橋

平安時代までは、善人は三途の川の橋を渡ることができるとされていましたが、室町時代になると、橋にかわって、渡し船になりました。料金は、「六文」とされています。昔は、死者の着物のえりに六文銭を縫い込んだりしていました。現在では、紙のお金を棺に入れてあげるようになりました。こうした風習から、「地獄の沙汰も金次第」ということわざも生まれました。

最後の難関は、49日目の裁判 

最後の難関は、49日目の裁判で「六道」の入り口を選ぶことです。

霊魂は、49日法要までの間は、まだこの世とあの世の間にいるとされています。有名な閻魔大王の裁判は、35日目です。49日目に最後の裁判が終わり、死者に裁判官から6つの鳥居(とりい)が示されます。この6つの鳥居が「六道」の入り口です。死者はそのどれかを選ばねばなりません。 

③「須弥山」の世界

いよいよ6つの鳥居を選ぶことになりました。その先に「六道」があるのです。死者は、6つのうちの一つを選ぶと、その先には、大きな須弥山(しゅみせん)という山がそびえています。

須弥山は、あの世の世界の中心にあります。須弥山の大きさは広大です。具体的な数値で言うと、直径は太陽の半分ぐらいの大きさです。この須弥山を中心に4つの州と9つの山、8つの海が存在します

⑴須弥山の上の世界

有頂天:宇宙の最上部で如来様の世界

無色界:大自在天様がいる世界

色界:自在天様がいる世界

初禅天:梵天様がいる世界

兜率天:お釈迦様が誕生前にいた世界

⑵須弥山の下の世界 

金輪:黄金の層。表面には大地があり、山や川が形成されています。

水輪:大量の水の層。その厚さは、896万キロメートルと言われています。

風輪:円盤状の大気の層。その厚さは1280万キロメートルと言われています。円周は、8X10の59乗と言われています。

4つの州とは、次の通りです。

4つの州

東の勝身(しょうしん)州

西の牛貨(ごか)州

南の瞻部(せんぶ)州

北の俱盧(くる)州

9つの山と8つの海

また9つの山と8つの海とは、

  • 持双山(じそうせん)
  • 持軸山(じじくせん)
  • 檐木山(えんぼくせん)
  • 善見山(ぜんけんせん)
  • 馬耳山(ばじせん)
  • 象耳山(ぞうじせん)
  • 尼民達羅山(じみんだつらせん)
  • 鉄囲山(てつちせん)

があり、そのまわりに9つの海が取り囲んでいます。

一世界

仏教では、このような須弥山を中心とした世界を一世界(または小世界)としています。一世界が1000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1000個集まったものを大千世界といいます。これらを総称して三千大世界といいます。また10億個の須弥山世界のことを十万億土ともいいます。

④仏教の六道輪廻の世界は、なぜ6つなのか

六道輪廻の世界がある須弥山の成り立ちは、古代インドの世界観に基づいています。

古代インドにおいて輪廻の思想は、仏教以前にバラモン教の教えにも「五趣」(ごしゅ)、「五道」(ごどう)という輪廻思想がありました。

  • 「天界」
  • 「人間」
  • 「畜生」
  • 「餓鬼」
  • 「地獄」

の5つです。バラモン教は、とても厳しい教えでカースト制度と結びつきました。

バラモン教とカースト制度

⑴バラモン(司祭階級)
⑵クシャトリア(王族、武士階級)
⑶バイシャ(庶民階級)
⑷スードラ(奴隷階級)

このカースト制度においては、いったんカーストに生まれてしまうと死ぬまで、そのカーストから逃れられないという過酷なものでした。バラモン教を熱心に信仰したものは、次に生まれ変わった時に、上のカーストに生まれ変わるということは許されましたが、最下位のスードラは、生まれ変わってもスードラにしか生まれないという教えでした。

それに疑問を持ち、社会の底辺の人々を救済するために新しい宗教を創始したのがシャカムニ・シッダッダでした。(紀元前5世紀)

仏教とバラモン教の違い

仏教においても、この輪廻転生の思想が取り入れられましたが、バラモン教との違いは、「阿修羅道」が、ひとつ増えて「六道」となりました。「阿修羅」は、ゾロアスター教の最高の神であるアフラ・マズダーです。阿修羅道というのは、六道の世界では、戦いにあけくれる者たちが生まれ帰る場所としています。

ゾロアスター教との対立

「阿修羅道」を加えた経緯については、ゾロアスター教との対立があったことに起因しているとみられています。仏教が広範囲に伸び、アフガン地方にまで盛んになるにつれて、古くから存在するゾロアスター教との対立が深まりました。インドの外の世界にあったゾロアスター教ですが、仏教の世界観からは、全てを抱合する宇宙として、彼らの存在を取り入れたものとされています。

阿修羅道が戦いの世界であるのは、ゾロアスター教が善悪二元論の教義を持ち、アフラ・マズダーは善神と悪神との戦いを支配する最高神だからです。

⑤「六道」のある場所

「六道」がある場所は次の通りです。

⑴「天道」・・・須弥山の中腹から上空に28天存在します。
⑵「人道」・・・東西南北の4つの州、贍部州(せんぶしゅう)、勝身州(しょうしんしゅう)、牛貨州(ごがしゅう)、俱盧州(くるしゅう)に存在します。
⑶「阿修羅道」・・・須弥山を囲む大海の下、約30万キロメートルの深さのところにあります。
⑷「畜生道」・・・動物となる世界。人道と同じ世界にあり、海と空を含みます。
⑸「餓鬼道」・・・瞻部(せんぶ)州の地下約7千キロメートルの深さのところにあります。
⑹「地獄道」・・・瞻部(せんぶ)州の地下約5万キロメートルの深さのところにあります。

⑥「六道」における業と因果応報とは

生前、殺人をすると「地獄道」に輪廻転生します。それは、殺人と言う悪い業(ごう)を持ったからです。業によって、次の輪廻転生する場所が決まります。それを因果応報と言います。

生前の行為を業(ごう)と言います。業は、カルマを漢訳したものです。悪業をすれば、その罰のために「地獄道」に落とされてしまうのです。簡単に言うと、悪い業(カルマ)が、悪い結果をもたらすということです。それを因果応報と言います。因果応報とは、良い結果であれ、悪い結果であれ、その原因をつくったのは、自分だという考え方です。「因果」というのは、原因と結果の意味です。

仏教用語「因果応報」の意味を分かりやすく解説します
仏教用語の「因果応報」という言葉の意味を知りたい方へ。人生で一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。いつの間にか、私たちの周りで一般的に使われる身近な言葉となりました。 本記事では、仏教用語の「因果応報」という言葉の意味をご紹介します。

⑦業(カルマ)の法則とは

業(ごう)は、サンスクリット語のカルマです。悪いカルマを持つと、次に生まれ変わった時に望ましくない結果となります。それをカルマの法則と言っています。因果応報の原因となる業(カルマ)について分かりやすく説明します。

仏教では、業(カルマ)を3種類に分けています。

業(カルマ)

  • 身業(しんごう):体で行うこと
  • 口業(くごう):口で語ること
  • 意業(いごう):心で思うこと

カルマの意味は、簡単に言うと「行動」です。生前に善い行いをしていれば、来世で好ましい結果が得られるという考え方です。反対に悪い行いは来世では好ましくない結果が現れることになります。

ことわざの中でも「蒔いた種は刈らねばならぬ」と言われますが、生前、自分で蒔いた種は、来世において自分で刈り取らなければならないのです。そのカルマの重さによっては、永遠にその因果応報から逃れることができないのです。

因果応報において、カルマが因となりエネルギーとなり、果を生み出します。因により生じたエネルギーは消えることはありません。このように永遠に因果応報から逃れられないのがカルマの法則です。

「カルマ」とは人間の持つ魂に与えられた課題

これを運命論的に悲観的に考えるか、それとも前向きに考えるかによって、次の生まれ変わりの人生も変わってきます。良い結果を受けるためには、どんな不幸な人生であっても人生に学び、感謝し、霊的に成長し、進化しなければならないのです。それは一回の人生で終わるとは限りません。何回も生まれ変わるなかで、霊的に成長をしていかなければならないのです。「カルマ」とは人間の持つ魂に与えられた課題なのです。

カルマの法則とは何か?その本当の意味を解説
カルマの法則とは何か知りたい方へ。基本的な意味と、カルマの法則はわたしたちの人生にどのように影響していて、どう向き合っていくべきものなのかについて、具体例なども挙げながらわかりやすく紐解いてゆきましょう。この記事では、深層心理セラピストの斎木サヤカが、カルマの法則とは何かその意味を分かりやすく詳しく解説致します。

⑧阿毘達磨俱舎論(六道輪廻の世界のなりたちについて)

仏教の因果応報については、阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)という経典に詳しく書かれています。釈迦が生まれてから、その成立に至るまで千年近くかかっています。

シャカムニ・シッダッダ(紀元前5世紀)すなわち仏陀(ブッダ)の教えは、死後、弟子たちによって教説としてまとめられました。それがアーガマ(阿含経)です。仏陀(ブッダ)の説く真理は、ダルマと呼ばれました。そして「ダルマ(真理)の研究」のことをアビダルマと呼びました。

アビダルマ・コーシャ・バーシャ

しかし、その後時代の経過とともにいくつかの仏教僧団に分かれたため、ダルマ(真理)の研究も統一性を失っていきました。4~5世紀にインドの仏教徒であるヴァスバンドゥ(世親)が著した名著「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」で、「シャカムニ・ブッダの教え」をひとつの思想体系としてまとめ上げました。後に漢訳されて、阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)となりました。

私たちが六道輪廻の世界を知ることができるのは、この阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)があるおかげです。

サットヴァ・カルマ

俱舎論の中で、「宇宙の成り立ち」について、宇宙は創造主によるのではなく、「サットヴァ・カルマ」によって生じたものとしています。「サットヴァ・カルマ」とは、「有情」と漢訳されています。

「有情」とは、生物、動物のことです。「サットヴァ・カルマ」とは、生きる者のカルマという意味です。生きる者の方が先にあるというのは不思議な世界ですが、宇宙には、生命体を生み出すエネルギー的存在があったと解釈することができます。科学的には宇宙にあるダークマター(暗黒物質)のようなものではないかと思います。

六道輪廻の世界のなりたち

「サットヴァ・カルマ」により微風が吹き、風輪ができ、次第に水輪ができ、金輪ができ、大地ができ、須弥山という自然界が出来上がりました。その後、天上の世界ができあがり、最後に地下の地獄の世界も出来ました。こうして六道輪廻の世界は出来上がったのです。

⑨仏教における「善悪」の考えかた

仏教における善と悪という概念は、私たちが普通に考える善悪ではありません。私たちは、どちらかというと「勧善懲悪」的にものごとを考えてしまいますが、仏教の善悪はそうではないのです。

⑴善悪とは・・・

仏教において、善悪とは相対的な考えであって、ひとつの行為が善であったり、悪であったりするということです。すると、いくら自分で善い行いをしていると思っていても、それが勝手な思い込みである場合、結果として悪いものとなってしまうのです。 

⑵無記とは・・・

仏教では、善も悪もないという「善悪無記論」という説があります。釈迦がある問いに対して回答を避けたということから経典に記すことができなかったことから「無記」という表現がとられました。釈迦は、仏道修行に役に立たない問題を「無記」としたのです。従って、仏教の倫理価値には、善と悪と無記という3つの概念が生まれました。

人間の生前の業(カルマ)の善と悪によって原因が作られ、その結果、来世の状態がもたらされます。いわゆる因果応報です。「善因善果、悪因悪果」とか、「自業自得」という言葉で一般に知られています。

ところが、俱舎論の中では、因果応報は、「善因楽果、悪因苦果」とされています。なぜ「善因善果」とならずに「善因楽果」なのでしょう。

俱舎論では因果応報によって生じた「結果」は「中性」

俱舎論では、因果応報によって生じた「結果」は、道徳的な意味で「中性」だと言っています。「善」でも「悪」でもありません。しかし、本人にとっては、「好ましい楽な状態」にはなると言うのです。

この問題も私たちには難問です。「善因善果」とならなければ、現在、「善」をする気持ちが薄くなりかねません。これは、仏教において、「善」の概念が厳しいものだからです。

⑩六道輪廻から脱出するには

仏教の説く世界とは、二つの構造を持っています。

⑴輪廻する世界・・・六道輪廻の世界
⑵輪廻しない世界・・・西方極楽浄土の世界

輪廻する世界とは、六道輪廻の世界です。たとえ生前、一生懸命修行に勤めても、死後に閻魔大王から、どのような裁断が下されるのか知ることはできません。その結果、六道のいずれかの世界に放り出されることもあるのです。

西方極楽浄土の世界

一方、輪廻しない世界とは、西方極楽浄土の世界です。阿弥陀如来が創った仏国土とされています。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えるだけで西方極楽浄土に行くことができるとされています。

人は必ず死にます。普段は「死」に対する恐怖というものは感じることなく生活していますが、何か重篤な病にかかってしまったりすると、いっぺんに死が身近に感じられます。

しかし、よく考えてみると、死への恐怖とは、痛みとか苦しみよりも、死後の未知の世界に対する恐怖の方が強いのです。タナトフォピアという病気があります。死を恐れる病気です。1950年代にフロイトが、死の恐怖を訴える人々を表す言葉として造った言葉です。

「死後とは、それで終わりではない」

死を恐れすぎると、喪失の恐怖から不眠症や自殺さえも考えるようになってしまいます。人生をもっと楽天的に考えるというのも解決のひとつですが、死後の世界に向き合ってみるというのも解決のひとつになるでしょう。「死後とは、それで終わりではない」という意識になれば、次の生まれ変わりに備えて、心構えも変わってきます。

 

最後に

ここまでの長文をお読み頂き、有難うございます。
物理学者のホーキング博士がお亡くなりになったことが報道されました。筋萎縮性側索硬化症と闘いながら、宇宙の研究を続けました。21歳で発症し、余命はわずか2,3年と言われながらも76歳まで生きました。彼はその後、何年もかけて「ブラックホール放射の理論」を完成させました。彼は、科学者ですので、「あの世」とか、「輪廻転生」を信じてはいません。彼自身も、「人間はコンピューターのようなもので、機械が止まれば、それで終わり」と言っていました。

あるジャーナリストが、彼にインタヴューしました。

 「あなたの脳をコンピューターに移植して、その中で生まれ変わって思考できるとしたら、それに興味はありますか」

と問いかけました。すると彼はにっこり微笑んで否定はしませんでした。科学的に可能ならば、コンピューターの中で生きる方が、六道輪廻の世界より快適なはずです。移植可能な近未来の世界においては、六道輪廻の世界に生まれ変わりたくない人は、自分の脳をコンピューターに移植することを考えるのではないでしょうか。

以上、最後までご覧頂き、有難うございました。