徳を積んでいるようで業を重ねる行動①自己犠牲
人のために良いことをする、それが徳を積むことだと思っている方もいるかもしれませんが、そこに自己犠牲があるとしたら徳を積んでいるように見えても実は業を重ねる行為かもしれません。
ある意味傲慢
なぜなら、自分を犠牲にするということは自分を傷つけ、貶めていることになるからです。たとえ自分が不幸になったとしても、誰かを幸せにしたいというのはある意味傲慢であり、それだけで業を重ねていることになります。
自分自身が幸せになること
まずは、自分自身に対する徳ということを考えてみましょう。自分を愛し労わり、自分自身が幸せになることです。その上で、人を大切にして人のためになることをするというのが本当の徳積みです。
徳を積んでいるようで業を重ねる行動②打算
いくら徳を積むような行いをしていても、心のどこかで打算的な考えがあったら、その裏側で業を重ねていることになります。
こんなに社会貢献をしているのだから、自分にも少しくらいいいことがあるかもしれないという思いがあれば、それは我欲でしかありません。
徳を積むということは計算式で表すことはできません
欲を持つことは悪いことではありませんが、徳を積むということは計算式で表すことはできません。欲心からくる打算は、場合によっては業になってしまうということです。
徳積みをしたいと思うのであれば、自分の心のあり方をしっかり見つめ直してみること。そして、我欲を捨てることから始めなければなりません。
徳を積んでいるようで業を重ねる行動③偽善
良い行いにも正と負があり、表向きだけの良い行いは負になってしまうことがあります。悪気はないにしても、偽善行為は業を重ねることになりかねません。そこには、やはり人から良く思われたいという我欲があるからです。
究極は「宇宙の愛」
本当の徳積みは、自他の区別がなく「誰かのために」という思いも存在しないのです。究極は、「宇宙の愛」に基づいた誠実な気持ちで、自分ができることを誠心誠意行うだけなのかもしれません。
最後に
徳を積むということは、簡単なようで難しいことかもしれません。究極は自分自身の心のあり方でしかないと私は思います。
無私無欲になるためには、たくさんの学びと経験が必要かもしれません。人の役に立ちたい、社会貢献したいという思い。それが褒められたいという思いからの行為であったとしても徳積みにはなっていますが、できれば人として、もっと高みを目指す生き方をしたいですね。
以上、ヒーラー、メンタルケア心理士の坂木理恵がお伝えしました。最後までご覧頂き、有難うございました。