記事内に広告が含まれています。

ライトパーソンとは何か?その特徴をご説明します

③出会い系サイトでも運命の人に会えるか

出会い系サイトでの出会いは、同じ目的で集まった人たちの中から選ぶ偶然の出会いと言えます。「ライトパーソン」との出会いは可能でしょうか。ある集計報告によると、なかなか難しい結果が出ています。

【出会い系サイトでは騙されたという確率は高い】

それぞれの年代の総数のうちの騙されたとされる割合は次の通りです。

  1. 20代の全体のうち・・・35%
  2. 30代の全体のうち・・・20%
  3. 40代の全体のうち・・・20%
  4. 50代の全体のうち・・・35%
  5. 60代の全体のうち・・・45%

この数字でもわかるように、20代は、理想的な異性像を描いて恋愛関係を求める人が多く、期待を裏切られる率が高いと言えます。やはり30代、40代になると現実的に結婚相手を探す傾向にあります。50代、60代になると男女ともに伴侶を探すよりも交際相手が欲しいという願望が強くなります。

中高年になればなるほど、離婚歴を持つ人や扶養家族の問題を抱えている人が増える傾向があります。全ての出会い系サイトが、信頼できないとは言えませんが、真実の姿が見えない相手との交際はリスクを伴います。

④ヘレン・ケラーはアン・サリヴァンとの出会いで新世界に目覚めた

キング牧師

キング牧師

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929~1968)は、アメリカの人種差別問題に立ち向かった牧師として有名です。彼は、ガンディーの「非暴力」に感銘し、公民権運動を起こしますが、「非暴力」が戦術だけになっていて、彼の「生き方」にはなっていませんでした。そこで、ライトパーソンの助言で「生き方」が変わりました。そして、その効果は全米だけでなく、世界中にキング牧師の訴えが広まりました。

【キング牧師の「非暴力」という抵抗】

キング牧師の著書「自由への大いなる歩み」の中で、大学院時代にガンディーの「非暴力・無抵抗主義」に感銘してガンディーに関する本を大量に買い込み読み漁ったと書かれています。

【初期のキング牧師の認識】

  • ⑴彼は、非暴力は無抵抗とは異なる。
  • ⑵非暴力は社会改革のための大きな力になる。
  • ⑶自らの生き方は、「非暴力」ではなかった。

【モントゴメリーでのバスボイコット運動】

  • ⑴キング牧師の運動・・・モントゴメリーでのバスボイコット運動で、キング牧師は、バス利用における人種差別の撤廃を求めました。キング牧師は、この運動の指導者となりました。
  • ⑵キング牧師の「非暴力」・・・キング牧師は、この運動で「非暴力」を訴えました。人口の少ない黒人の武力による抵抗は、多数の白人からの暴力でつぶされてしまうことを懸念して、「非暴力」であれば、他の白人からの理解が得られると思ったからです。
  • ⑶キング牧師の自宅のポーチが爆破・・・白人至上主義者によって、キング牧師の自宅にあるポーチが爆破されました。
  • ⑷キング牧師は警備強化・・・爆破事件によって、自宅に武装警備員を配備しました。護身用にも拳銃を所持しました。

【ライトパーソンの助言】

  • ⑴北部からベイヤード・ラスティとグレン・スマイリーが、キング牧師の「非暴力運動」の応援に来ました。ところが、二人はキング牧師が、自宅の警備を強化しているのを見て驚きました。
  • ⑵二人は、キング牧師が、「非暴力」を唱えながら、ガンディーのような生き方をしていない矛盾を指摘しました。
  • ⑶「非暴力」で重要なのは、指導者が「非暴力」の生き方をしなくてはならないことでした。そうでなければ、多くの人から支持を得られない事を二人は、キング牧師に説得しました。
  • ⑷キング牧師は、「非暴力」についての考え方を改めました。そして、自宅の警備を解きました。銃も処分しました。キング牧師は、完全な「非暴力」の生き方に徹しました。

【キング牧師の非暴力運動は全米に広がりました】

アメリカ各地で黒人の公民権運動が盛り上がりました。キング牧師は、首都ワシントンで、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大会を企画しました。1963年8月28日に行われたワシントン大行進は参加者が20万人を超える大規模なものとなりました。

【演説「I HAVE A DREAM(私には夢がある)」】

1963年8月28日に行った演説は、人種差別の終焉と公民権運動に大きな影響を与えました。この演説は即興で行われたと言われていますが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価されました。

【公民権法(CIVIL RIGHT ACT)の成立】

1964年7月2日に公民権法が制定されました。これにより、建国以来200年近くの間、問題となって来た人種差別が法的に解決されました。

【ノーベル平和賞の授与】

1964年のノーベル賞が、10月14日に発表され、12月10日に授与となりました。

【ライトパーソンの助言で大きい進歩を築きました】

キング牧師は、ライトパーソンの助言で、公民権法を成立させることが出来ました。しかし、法的には、人種差別はなくなりましたが、実際の現実の中では、まだまだ差別は続いています。キング牧師も1968年に暗殺されました。キング牧師の死を悼み、毎年1月の第3月曜日をキング牧師記念日として祝日となりました。

⑥ジョン万次郎は船長のホイットフィールドの養子になり維新で活躍

1880年頃のジョン万次郎

1880年頃のジョン万次郎

 ジョン万次郎は、幕末から維新にかけて活躍した人です。土佐の漁師の生まれでしたが、乗り込んだ船が嵐に会って漂流してしまいます。流れ着いた島で、アメリカの捕鯨船に救助されました。船長に気に入られてアメリカに行きました。英語、数学、測量、航海術、造船技術を学び日本に帰ってきました。日本は、幕末・維新という世の中の変動期を迎え、ジョン万次郎の英語や知識は、幕府や大名にとって重要なものとなりました。ジョン万次郎が日本の将来を動かす重要人物となることができたのは、船長のホイットフィールドのおかげであったと言えます。ジョン万次郎にとって、船長のホイットフィールドは、「ライトパーソン」であったのです。

【生い立ちと漂流】

ジョン万次郎(1827~1898)は、日本名が中浜万次郎です。生まれは、現在の高知県土佐清水市中浜の半農半漁で暮らす貧しい家の次男として生まれました。14歳の時、万次郎は、漁船に乗り沖合15キロ付近まで漁に出ました。その日は天候が荒れ、嵐になりました。船は航行不能になり遭難してしまいました。5日半漂流して運よく伊豆諸島にある無人島のひとつ鳥島に漂着しました。この島でわずかな雨水や海藻などを食べながら、143日間を耐えました。1841年6月27日、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が、鳥島に立ち寄りました。乗組員が島の新鮮な植物を取るために島に上陸した時に、幸運にも万次郎たちは、乗組員に発見され救助されました。

【救助されアメリカに向かう】

途中、船はハワイのホノルルに立ち寄ります。救助された5名のうち万次郎を除く4名はホノルルで下船しました。万次郎は、ただ一人捕鯨船員となって、アメリカ本土を目指しました。船長のホイットフィールドが、万次郎のことをとても気に入ったからでした。万次郎は航海中、船長から世界地図を見せられて、日本の小ささを初めて知りました。万次郎は、乗組員からも愛されて、「ジョン・マン」と呼ばれました。こうして、船はマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに寄港しました。

【船長の養子となる】

アメリカ本土に渡った万次郎は、頭の良さが気に入られ、船長の養子となりました。1843年には、オックスフォード学校、1844年にはバートレット私塾で、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学びました。万次郎は一生懸命勉強し、首席となりました。その後、数年間は捕鯨船に乗り、副船長を務めました。

【帰国を決意】

1850年5月、日本に帰ることを決意しました。帰国のための資金作りにサンフランシスコに行き、金鉱で金を採掘しました。そこで600ドルの資金を作り、ホノルルに渡りました。以前ホノルルで降りた土佐の漁師仲間と再会しました。1850年12月17日、上海行きの商船に乗り込みました。同時に小舟も買い込んで船に積みました。1851年2月2日、琉球に小舟で上陸しました。番所に行き名乗り出ました。その後、薩摩藩に送られ取り調べを受けました。

【薩摩藩で歓迎を受ける】

薩摩藩では、万次郎達を歓迎し、藩主・島津斉彬(なりあきら)は、自ら万次郎に海外の情勢を質問しました。斉彬は、後に万次郎の英語や造船技術に注目し、薩摩藩の開成所(洋学校)の英語教師として招きました。

【長崎に送られる】

その後、万次郎は長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行の取り調べを受けました。長崎奉行所では、踏み絵によりキリスト教徒ではないことを証明させられ、アメリカから持ち帰った書物などを没収されました。また土佐藩から迎えに来た土佐の役人に引き取られ、土佐に向かいました。

【土佐での取り調べ】

高知城下において、藩の取り調べを受け、約2か月後、故郷に帰ることができました。漂流から11年目にしてようやく故郷に帰ることができました。

【帰国後の活躍】

土佐藩では、万次郎を士分に取り立て、藩校である「教授館」の教授に任命しました。この時に、後藤象二郎や岩崎弥太郎を教えています。その後、万次郎は幕府から招聘されて、旗本の身分を与えられました。その際、「中濱」の苗字が授けられました。そして、幕府の軍艦教授所の教授に任命されました。造船の指揮、測量術、航海術の指導、英会話書の執筆や翻訳、講演、通訳など精力的に働きました。

【黒船・ペリーの来航】

ペリーの日本来航の際の四隻の黒船の1隻

ペリーの日本来航の際の四隻の黒船の1隻

【咸臨丸に乗り込む】

1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡りました。サンフランシスコに到着後、施設の通訳として活躍しました。1861年には、外国奉行・水野忠徳に同行し軍艦4隻で小笠原諸島の調査を行いました。その後、幕府の軍艦操練所の教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命されました。1866年、土佐藩の開成館の設立にあたり、英語、航海術、測量術を教えました。また藩命により、後藤象二郎と長崎、上海に行き土佐帆船「夕顔丸」を購入しました。1867年には、薩摩藩の招きを受けて航海術や英語を教えましたが、倒幕の機運が高まってきたので江戸に戻りました。

【維新後の活躍】

明治維新後の明治2年(1869)に明治政府により開成学校(東京大学)の英語教授に任命されました。1870年に欧州へ派遣されました。帰国の途中でアメリカに寄り、恩人のホイットフィールドと再会しました。日本に帰国後は、軽い脳溢血を起こし、以後静かに暮らしました。明治31年(1898)に、72歳で死去しました。

⑦やなせたかしは伯父の助言でその後の人生が開けました

「アンパンマン」のアニメで有名な「やなせたかし」ですが、意外と遅咲きの人生でした。彼の人生は、幼い時、決して恵まれたものではありませんでした。父の死に会い、母の再婚のため、伯父の養子となりました。幸いであったことは、伯父がやなせに理解があったことでした。

伯父は医者でしたが、趣味人で、自由で豊かな心を持ち、やなせが、絵が好きなことに理解を示しました。伯父はやなせの将来の生計のことを考えて、官立旧制高等工芸学校図案科(現在の千葉大学工学部総合工学科デザインコース)を勧めたと言われています。

もしやなせが別の道を選んでいたとしたら、「アンパンマン」は生まれなかったでしょう。伯父はやなせにとって、「ライトパーソン」であったと言えます。

【生い立ち】

1919年東京都の生まれ。父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ特派員として上海に渡りました。家族も上海に渡りますが、アモイへ転勤となったため、家族は東京にもどりました。

1924年に父親はアモイで死亡しました。そのため、家族は親戚のいる高知市に移住しました。まもなく母親は再婚したので、やなせは伯父(父の兄)に引き取られました。この伯父は、医者で趣味人であったため、やなせの人生に大きな影響を与えました。中学の頃から絵に関心を持ち、官立旧制高等工芸学校図案科に入学しました。

1939年に卒業後、田辺製薬・宣伝部に就職しましたが、1941年に徴兵のため帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊・補充隊へ入営しました。学歴を生かし幹部候補生を志願し、乙幹に合格し、暗号を担当する下士官になりました。その後、日中戦争に出征し、暗号の作成・解読に従事しました。やなせの部隊は戦闘のない地域にいたので、一度も戦闘をしないまま終戦となりました。

【漫画家への道】

終戦後は、戦友らとともにくず拾いの会社で働いたが、絵の興味がわき高知新聞に入社しました。編集部で、漫画や表紙絵を担当しました。1947年、上京し漫画家をめざしましたが、独立するには苦しく、三越の宣伝部に入社しました。グラフィックデザイナーとして活躍を始め、漫画も描き始めました。1953年に三越を退社し、専業の漫画家となりました。

【その後の紆余曲折】

漫画の世界も、手塚治虫らの「ストーリー漫画」が主流となり、やなせの「大人漫画」や「ナンセンス漫画」はすたれていきました。1960年、「見上げてごらん夜の星を」のミュージカルの舞台美術を手掛けたときに、作曲家の「いずみたく」と知り合い、1961年の「手のひらを太陽に」を作詞し、大ヒットしました。1964年、NHKの「まんが学校」に講師として3年間レギュラー出演しましたが、「ストーリー漫画」のブームには勝てませんでした。しかし、放送作家の仕事などが舞い込み生活には困りませんでした。

【詩人・絵本作家への道】

1966年、処女詩集「愛する歌」をサンリオの出版で出したところ、大ヒットしました。その後、サンリオのもとで、1969年に「アンパンマン」が出来上がりました。しかし、その頃のアンパンマンは大人向けのものでした。1969年にアンパンマンを子ども向けに改作し発表しました。1988年には、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放映が始まりました。これが、爆発的な人気番組となりました。

【晩年】

60歳後半から90歳にかけて、やなせの体調は良好でなくいろいろな病気を患っていました。しかし、漫画の制作や活動は精力的に行いました。「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」というのが、やなせの信念でした。東日本大震災後、「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソングになり、多くの子どもたちが笑顔を取り戻しました。2013年8月に体調を崩し入院し、10月13日に心不全のため死去しました。享年94歳。

続いて、浅野忠信とライトパーソンについてお話しいたします。