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呪いの種類はどんなものがあるか?一覧で紹介

言霊信仰による呪い(古代日本の呪い)

言霊信仰(ことだましんこう)とは、言葉に霊が宿っているという信仰です。古代の日本人は、言霊信仰を持っていました。言葉に宿る霊の力の働きは、現実を作用すると考えていました。良い言霊を持っている言葉を使えばよい現象が生まれ、悪い言霊を持っている言葉を使えば、悪い現象が生まれるというものです。

現代でも、結婚式などで使ってはいけない「忌み言葉」(いみことば)というものがあります。例えば、「壊れる」「切れる」「落ちる」「終わる」「死ぬ」「絶える」「流す」などです。これも言霊信仰のなごりと言えるでしょう。

【聖徳太子の呪い】

「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画

聖徳太子が中国の皇帝に出した手紙

聖徳太子は、中国の隋の煬帝(ようだい)という皇帝に手紙を出しました。文面は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」というものです。歴史の時間で習うことは、日本の地位を対等に表現したというように勉強しましたが、言霊信仰から考えると、文面の意味は「これから発展する日本の天子から、これから没落する中国の天子に手紙を書きました」となります。とんでもない挑戦的な文面となるのです。

聖徳太子は、「呪い」をかけたのです。政治的な背景としては、隋は朝鮮半島の高句麗と対立し交戦中でした。朝鮮半島には、高句麗の他に新羅(しらぎ)と百済(くだら)という国があり複雑な関係でした。確かに下手な戦争をすれば、大帝国の隋でしたが、没落の危険性を持っていたのです。

法隆寺にかけられた「呪い」

隠された十字架参照:新潮社

法隆寺は仏法を広めるだけではなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂するために建てられたものです。梅原猛(うめばらたけし)氏の「隠された十字架」という本の中で、聖徳太子の呪いのことが書かれています。そのいきさつと言うのは、以下の順で説明いたします。

  • 601年・・・聖徳太子が、斑鳩寺(法隆寺の旧称)を建立。
  • 621年・・・聖徳太子の死亡。
  • 643年・・・蘇我氏が聖徳太子一族を斑鳩寺に追い詰め惨殺。
  • 646年・・・大化の改新で藤原氏が蘇我氏を滅ぼす。
  • 669年・・・斑鳩寺が全焼する。
  • 670年・・・法隆寺を再建。
  • 737年・・・藤原氏の重要人物の四兄弟が天然痘で急死。その後は光明皇后が政権を担いました。その間、藤原氏による政治の関与はなく、藤原仲麻呂まで空白の期間がありましたが、その仲麻呂も不運に見舞われ、乱を起こした結果、斬殺されました。

【聖徳太子の呪い(アーネスト・フェノロサに対する呪い)】

法隆寺夢殿の本尊観音菩薩立像

法隆寺夢殿の本尊観音菩薩立像

法隆寺の夢殿には、聖徳太子の像といわれる救世観音(ぐぜかんのん)が安置されています。この救世観音は千年以上、秘仏として布に巻かれていました。それは、「開封すると呪われる」という言い伝えがあったからです。それを無理やり開封させた人がいました。

アメリカの東洋美術史家 アーネスト・フェノロサ

その人は、1884年(明治17年)に日本に訪れたアーネスト・フェノロサというアメリカの東洋美術史家です。彼は、救世観音の布を開封することを要求しました。法隆寺からは反対されましたが、最終的に開封することになりました。私たちは、そのおかげで救世観音の姿を見ることができましたが、不運なことに、アーネスト・フェノロサは、1908年(明治41年)、ロンドンの大英博物館で心臓発作のため亡くなりました。開封からは24年後ですので、呪いというのが当たらないという人もありましたが、場所が大英博物館という「呪い」のかかった展示物が多く陳列された場所でしたので、当時の新聞では評判になりました。

【万葉集の言霊信仰】

万葉集の言霊信仰では、「呪い」というよりは、「願い」を込めた歌が多くあります。言霊信仰が「呪い」だけではなく、相手に対する「愛」の感情や無事を願う思いも言霊にたくしたという例をご紹介致します。

山上憶良(やまのうえのおくら)の長歌

「そらみつ倭(やまと)の国は皇神(すめがみ)の厳(いつく)しき国、言霊の幸(さき)はふ国と語り継ぎ言い継がれけり」という歌があります。これは、遣唐使に対して贈られた歌です。

この歌の意味は、「日本の国は神様がいる尊い国です。言霊の作用で、幸福が語り継がれていきます。だから無事に帰ることができるのです」となり、親しい人が遣唐使の務めを果たして、無事に帰還することを願う思いが込められています。

柿野本人麻呂(かきのもとひとまろ)歌集

「言霊の八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆうけ)問ふ占(うら)正(まさ)に告(の)る妹(いも)はあひ寄らむ」、この歌の意味は、「たくさんのにぎやかな通りには、夕刻になるといろいろな精霊が動き出します。占いでは愛しいあなたと寄り添うことになると言っている」という意味です。男性から女性に送った恋の歌です。

恋愛の成就を願う時には、昔の世でも占いに頼っていたようです。柿野本人麻呂が生きていた大和時代の占いの詳しい内容はわかりませんが、多分好きな人の名前を紙に書き、「恋の思いが叶うように」と書き添えて、香木などで良い匂いをつけて、綺麗な花の咲く木の枝に結わえたりしたのではないでしょうか。言葉は霊となり、匂いは風にのり、恋する人の周りに漂い、「言葉の霊の作用」で恋する思いが伝わったのかもしれません。科学が発達した現在でも、人気の高い占い師さんのところに集中しています。恋の闇路を照らす方法は、やはり今でも占いという昔からの方法に変わらないということのようです。

続いて、ツタンカーメン王の呪いについてお話しいたします。