「最後の晩餐」の意味を知りたい方へ。
「最後の晩餐」という言葉で、何を思い浮かべるでしょう?レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なあの絵を思い浮かべる人が多いかもしれませんね。あの絵で描かれていたものは何か、最後の晩餐の席で、イエスと弟子たちとの間ではどのようなやり取りがあったのでしょうか。
本記事では、「最後の晩餐」の意味についてご紹介いたします。
①最後の晩餐とは、イエスが処刑前にとった最後の食事のこと
イエスは、当時のユダヤ教のあり方を批判し、方々で貧困層の救済や病人たちの治療などを行っていました。そういった活動を続けるうち、イエスに心酔する人々が増えていき、勢力がどんどん拡大していきました。
そんなイエスの布教活動に危機感を抱いたのが、ローマ帝国です。ローマ帝国はイエスに反ローマの罪を着せ、処刑することにしました。
最後の晩餐とは、イエスがローマ兵に捕らえられて十字架にかけられ処刑される前夜に、弟子たちと共にとった食事のことです。
②最後の晩餐の時期は「過越(すぎこし)の祭り」の時期だった
最後の晩餐の時期は、ちょうど「過越の祭り」が開かれている時期でした。
「過越の祭り」とは、ユダヤ教の伝統行事です。かつてユダヤ人の先祖は奴隷としてエジプトで働かされており、多くの苦しみを味わっていましたが、神の力によってその境遇から救い出されました。「過越」とは、神への信仰を貫き通した人の家を、災いが通り過ぎていったこと(スルーしたこと)からきています。
ユダヤ人の先祖たちが味わった苦しみや、苛酷な境遇から救い出してくれた神への感謝を忘れないよう、毎年、ユダヤ暦ニサン月(太陽暦では3、4月頃)になると「過越の祭り」が行われることになったのです。
③パンとワインはキリストの血肉
最後の晩餐の席では、「過越の祭り」の慣習にならい、酵母の入っていないパンとワインが振る舞われました。
この時、イエスは弟子たち一人一人にパンとワインを渡し、「このワインは私の血であり、このパンは私の身体である」と告げたと伝えられています。
この時のイエスの言葉にちなみ、パンとワインをイエスの身体だと考えて食する儀式のことを「聖体拝領(せいたいはいりょう)」もしくは「聖餐(せいさん)」と呼んでいます。
④聖体拝領とはイエスの存在を身体に取り込むこと
「パンとワインは私の血肉である」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。
解釈には諸説ありますが、この最後の晩餐の席で、イエスは翌日処刑されることをすでに予見していたといわれています。つまり彼はこの食事が、弟子たちととる最後の食事だと知っていたということです。弟子たちとの別れを目前にしたイエスが、弟子たちに送ったはなむけの言葉だと考えると、この言葉の意味が理解できるのではないでしょうか。
イエスも弟子たちに教えたいことがたくさんあったでしょうが、時間は限られています。そんな状況下で、言うべきことを精一杯込めた言葉が「このパンとワインは私の血肉である」という言葉です。つまり、「私がたとえ(死んで)いなくなっても、私はあなた方と共にある」あるいは、「私から学んだことを忘れないよう、身体の中に私の存在を取り込んだつもりで布教を続けなさい」ということを伝えたかったのではないでしょうか。
⑤イエスはユダの裏切りを知っていた
また、最後の晩餐の時、イエスはユダの裏切りをも察知していたと伝えられています。ヨハネの福音書には、以下のような記述があります。
「彼(ユダ)がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい』席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった」
イエスがユダの裏切りを知っていながら、なぜ彼を咎めなかったのか、そして、どうして迫りくる非業の死を避けようとしなかったのかには、今でも様々な解釈があります。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」というセリフはむしろ、ユダの背を押しているようですらあります。
神の子といえど運命を変えることはできないということなのかもしれませんし、自分が弟子に陥れられて命を落とすことを知っていても、弟子の心の弱さを受け入れて赦すことが愛なのだということなのかもしれません。
⑥聖杯は重要なモチーフ
「最後の晩餐」を描く上で重要なモチーフのひとつに、聖杯があります。聖杯とは、イエスが処刑され命を落とした時、その血を受けた杯のことです。処刑当日、ローマ兵はロンギヌスの槍でイエスの脇腹を刺した後、イエスが絶命したことを確かめるため、その血を杯へと注いだといいます。
ですが、2003年にベストセラーになった小説「ダヴィンチ・コード」では、面白い解釈をしています。聖杯というのは女性の子宮の寓意であり、女性原理の象徴であるというのです。確かに、女性の子宮を図式化した絵は、盃のようにも見えますよね。「ダヴィンチ・コード」は、聖書外典のひとつ「ピリポの福音書」から着想を得たということですが、なかなか興味深い解釈です。イエスを神聖視しており、女性の社会的地位が低かった時代の西洋では、そのような聖書の解釈は決して許されなかったでしょうから、時代に合った解釈といえるのかもしれません。
⑦「死」はこの世における最後の試練
男性原理が創造性だとすると、女性原理は受容性だと考えられています。イエスが非業の運命を甘んじて受けたことは、男性の身でありながら女性的な受容性を身に着けたことの寓意と解釈することもできるでしょう。
私たち人間は、この世に生を受けた以上、いつかは「死」という運命を受け入れなくてはなりません。「死」は、この世における最後の試練なのです。
自らの前に立ちはだかる運命や、弟子たちの裏切りを知ってなお取り乱すことがなかったイエスを手本とし、私たちも「死」を恐れず受け入れられるようになりたいものですね。
最後に
聖書には様々な名場面がありますが、「最後の晩餐」も名場面の一つといえるでしょう。多くの芸術家が「最後の晩餐」をモチーフに、様々な作品を生み出してきました。日本人にはあまりなじみのない聖書ですが、詳しく知ることで、作品の理解をより深めることができるのではないでしょうか。
以上、最後までご覧頂き、有難うございました。