六道輪廻図
六道輪廻図

仏教における「阿修羅道」の意味が知りたい方へ。

「阿修羅道」とは、あまり聞きなれない言葉ですが、「修羅場」という言葉なら、テレビのニュースなどでリポーターが、「国会では野党議員が抗議のため議長につかみかかりました。与党議員が止めに入りましたが、双方殴り合いとなり、その場は大変な修羅場と化しました」などと言う時に、「修羅」という言葉を使います。ハチャメチャなとんでもない光景ということですが、「阿修羅道」となると、どんな世界なのでしょうか。

本記事では仏教における「阿修羅道」とは何か?分かりやすく解説します。

①「阿修羅道」とは、戦闘の世界です

「阿修羅道」とは、六道のひとつです。阿修羅(あしゅら)の住む争いの絶えない世界です。

「阿修羅」は、サンスクリット語のアスラの音写したものです。アスラは歴史的には、もともとゾロアスター教のアフラ・マズダーのことです。インド古代仏教において、その宇宙観の中に「阿修羅道」の世界が取り入れられました。

阿修羅道 

毎日が戦いの世界で、一日に3回戦場に駆り出され、必死の戦いをしなくてはなりません。しかし、ここでの生活は、決して苦しいものではなく、住居としてのお城は立派で、風景も美しく、美女にかこまれ享楽のうちに暮しています。

人間界よりも下のはずの世界ですが、なぜ恵まれた世界にいることができるのでしょう。詳しく見て行きましょう。

②「阿修羅道」の4つの世界

須弥山の概念図
須弥山の概念図

「阿修羅道」のある場所は、須弥山のそばの大海から約30万キロメートル下にあり、4種類の「阿修羅道」が縦に重なっています

  1. 羅睺阿修羅道(らごあしゅらどう)・・・阿修羅道の一番上にある世界です。人間の500年を1日として5000歳の寿命があります。ここに住む羅睺阿修羅王の宮殿は、縦横80万キロメートル、7層の城壁に囲まれ、美しい庭園があり、七宝造りのお城が輝いています。
  2. 勇健阿修羅道(ゆうけんあしゅらどう)・・・その下の世界。人間の600年を1日として6000歳の寿命があります。
  3. 華鬘阿修羅道(けまんあしゅらどう)・・・人間の700年を1日として7000歳の寿命があります。 
  4. 毘摩質多羅阿修羅道(びましつたらあしゅらどう)・・・一番下の世界。数として表せないほど長い寿命を持ちます。ここに住んでいるのが、毘摩質多羅阿修羅王ですが、彼には可愛い娘の舎脂(しゃし)がいました。舎脂が帝釈天に嫁いだので帝釈天の義理の父となります。

③「阿修羅」はもともと天界の神でした

人間界よりも下の世界であるはずの阿修羅の世界ですが、立派なお城に住み美女に囲まれた生活をしているというのは羨ましい限りです。これには理由があります。もともと阿修羅は、天界の者でした。しかし、帝釈天との抗争の結果破れてしまい、天界を追放されたのです。

帝釈天との抗争

帝釈天との抗争とは、いったいどんな事情があったのでしょう。阿修羅はもともと天界のひとつ忉利天(とうりてん)に住んでいました。そこでの統率者は、神々の帝王である帝釈天(たいしゃくてん)でした。阿修羅はこの帝釈天に無謀にも戦いをいどんだのです。

その戦いのきっかけは、阿修羅の娘に帝釈天が恋をしたことから始まりました。娘の名前は舎脂(しゃし)と言いました。

阿修羅の娘に恋をした帝釈天

ある日の事、帝釈天は娘を見かけました。なんという美しさなのでしょう。帝釈天は、娘に話しかけました。 

「あなたの名前は何というのですか?」
「私は舎脂と言います。阿修羅の娘です」
「阿修羅の娘か、そなたを嫁に欲しい」
「まあ、そんな急なお話、私にはどうして良いか分かりません」
「それなら、私から阿修羅に話をつけよう」

帝釈天は、早速、阿修羅の所に行き、縁談をもちかけました。

 「あなたの娘を嫁に欲しいのだ」

阿修羅は驚きました。帝釈天は神々の王なのですから、その王から娘を嫁に欲しいと言われ、阿修羅は、これを名誉と思いとても喜びました。

阿修羅の娘を宮殿に誘拐した帝釈天

ところが、帝釈天は娘を一刻も早く自分のものにしたいと思い、娘を強引に自分の宮殿に誘拐してしまいました。そうとは知らない阿修羅は娘が行方不明になったと思い心配でたまりませんでした。そこへ娘が帝釈天のところにいることを知らせるものがいました。阿修羅は激怒しました。

「帝釈天が神々の王であっても勝手な行為は許せない」

帝釈天に戦を仕掛けた阿修羅

阿修羅は大軍を率いて戦いを挑みました。その回数は何億回にも及んだと言います。阿修羅は、闘争の結果、執念の鬼となります。しかし、強さにおいて帝釈天にかなうはずもありません。この壮烈な戦いは、阿修羅の敗北に終わり天界を追放されてしまいました。 

④日本の奈良県興福寺の「阿修羅像」

興福寺 阿修羅像
興福寺 阿修羅像

奈良の興福寺には、有名な阿修羅像があります。3つの顔と6本の腕を持つ少年のような可憐な像です。それを三面六臂(さんめんろっぴ)と言います。一般的に阿修羅と言えば、戦いの神として憤怒の表情をしています。しかし、興福寺の阿修羅像の表情はどこか憂いがあり、悲しげな思いが伝わってきます。

阿修羅像の作者 将軍万福

この阿修羅像の作者は将軍万福という仏師です。当時、唐からもたらされた「金光明最勝王経」(こんこうみょうさいしょうおうきょう)をもとに造られたと言われています。そこでは、阿修羅は、これまでの罪を懺悔して釈迦に帰依することが説かれています。

光明皇后が阿修羅像の製作を依頼

この阿修羅像は、光明皇后(こうみょうこうごう)が母親の一周忌供養のために造らせたと言われています。光明皇后(701~760)は、仏教を熱心に信奉して、東大寺大仏の造営や国分寺の建立に寄与しました。また一説では、阿修羅像のモデルは、幼くして亡くなった基(もとい)親王を偲んで、光明皇后が造らせたものとも言われています。

⑤飛鳥時代は「阿修羅」たちの世界

飛鳥時代は、皇位継承をめぐって暗殺や謀反の疑いをかけて殺してしまうなど、血みどろの戦いが繰り広げられました。

この時代の最初の「阿修羅」は、蘇我入鹿(そがのいるか)です。

⑴蘇我氏の横暴

推古天皇が病死後(628年)、後継者争いが始まりました。山背大兄王(やましろのおおえのおう)と田村皇子(たむらのみこ)との争いは、田村皇子が勝利し、舒明天皇となり即位しました。(629年)

ところが舒明天皇(じょめいてんのう)が亡くなると(641年)、皇后の皇極天皇が即位しました。世間では次の天皇の候補者として、山背大兄王に人望が集まりました。これを苦々しく思った蘇我入鹿(600年頃~645年)は、彼の屋敷を襲い自殺に追い込みました。

⑵蘇我氏の滅亡

蘇我氏を滅ぼそうと立ち上がったのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。彼は、中臣鎌足とともに乙巳の変(いっしのへん)を起こしました。(645年)今で言えば、クーデターです。宮廷内で儀式の最中、剣を抜き、蘇我入鹿に襲い掛かりました。頭に一撃、そして肩に一撃、当時の剣は切ると言うより、刺殺や、相手をたたき割るというような使い方でした。暗殺の光景はさぞや凄まじいものであったことでしょう。

⑥鬼より恐い阿修羅「中大兄皇子」

次の「阿修羅」は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。

中大兄皇子は、クーデター後、いきなり天皇とはならずに、孝徳天皇をたて皇太子として政権をにぎりました。すぐに天皇になることは皇族の反感を強め統治の妨げになると予想されたからです。 

⑴不運な孝徳天皇 

中大兄皇子は、孝徳天皇を立てたにもかかわらず、都の遷都を決めました。(653年)孝徳天皇にしてみれば、寝耳に水です。しかし、中大兄皇子は、強引に皇后や皇弟(大海人皇子)を連れて、新しい都の倭京に行ってしまいました。後には誰も残りませんでした。孝徳天皇は失意のまま翌年崩御しました。その後も慎重な中大兄皇子は、天皇にはならず、孝徳天皇の母親が再度即位し、斉明天皇と名乗りました。(655年)

⑵中大兄皇子の陰謀説

次の天皇の候補としては、孝徳天皇の皇子である有間皇子(ありまのみこ)でしたが、ここであり得ない事態が発生しました。有馬皇子が斉明天皇に対し謀反を計画しているという疑いがかけられたのです。

有馬皇子は、性格が優しく謀反などを考える人ではありません。実は、蘇我赤兄(そがのあかえ)という豪族の口車に乗せられて、謀反の計画に心が動いてしまいます。蘇我赤兄(そがのあかえ)は、すぐに中大兄皇子に密告します。その結果、有馬皇子は謀反の罪により処刑されてしまったのです。(658年)

あまりにも速い謀反の発覚でしたので、はじめから蘇我赤兄は中大兄皇子の指示で動いたのではないかという陰謀説があるのです。

⑶百済の滅亡と斉明天皇の崩御

そんな時に朝鮮半島で異変が起きました。百済が唐と新羅に滅ぼされたのです。(660年) 斉明天皇は、自らも難波から船に乗り筑紫(福岡県)をめざしました。しかし、661年、斉明天皇は九州で急死してしまいます。これも中大兄皇子の陰謀とする説があります。

⑷白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗北

白村江の戦い(663年~666年)で唐と新羅の軍に敗れてしまいます。中大兄皇子は、延べ3万人近くの軍勢を出しますが、最終的に敗北し、その後の壬申の乱の遠因となります。

⑦壬申の乱で躍り出る逆転の阿修羅「天武天皇」

次の阿修羅は、「大海人皇子」(おおあまみこ)、「大海人皇子」は、中大兄皇子の弟です。後の「天武天皇」(てんむてんのう)です。

天智天皇の即位

668年、兄の中大兄皇子は、ようやく天智天皇として即位しました。慣例を破って、次の天皇の後継者として、実子の大友皇子(おおとものみこ)を皇太子としました。これに憤慨したのが、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)です。しかし、ここはじっと我慢するしかありません。

病に倒れた天智天皇 そして…

天智天皇は、671年、病に倒れたという知らせが大海人皇子のもとに届きます。そして弟の大海人皇子を呼び出し、後のことを託そうとしました。しかし、大海人皇子は、これを計略と見破り、わざと断って僧侶となると言って、吉野に逃れました。

天智天皇 暗殺説

672年1月、天智天皇が病気で崩御しました。ところが、この死亡も異説があり、天智天皇は、病気などではなく山階(山科)の郷に遠乗りに行ったまま帰らなかったというものです。もしかしたら、暗殺されたのではという陰謀説もあります。

壬申の乱

その年の7月、大海人皇子は吉野を出陣しました。これが壬申(じんしん)の乱です。次々に豪族が大海人皇子の軍勢に加勢しました。朝鮮半島での戦争で多くの犠牲を出し敗北したことから、多くの豪族たちは不満を持っていたので、続々と大海人皇子の軍勢は増えていきました。

大海人皇子が即位し「天武天皇」

亡くなった天智天皇の皇子の大友皇子(おおとものみこ)が、いくら呼びかけても西国からは軍勢が集まりませんでした。その結果、大友皇子(おおとものみこ)は、豪族の援軍が得られないまま連戦連敗、終に自決します。(8月) 673年、大海人皇子は、即位して「天武天皇」となりました。

⑧女傑の阿修羅「持統天皇」

次の「阿修羅」は、女傑の「持統天皇」です。

天武天皇が崩御し(686年9月)、表面上は、天武天皇の皇子の草壁皇子(くさかべのみこ)がいますので、問題はないように見えましたが、水面下ではにわかに後継者の争いがうごめいていました。草壁皇子(662~689年)と、当時評判の高かった同じ天武天皇の皇子の大津皇子(おおつのみこ 663~686年)が、争う結果となりました。

大津皇子の自害 

天武天皇が崩御して、すぐに奇怪な事件が起きました。川島皇子(かわしまのみこ)が、大津皇子が謀反の計画をしていると朝廷に密告しました。(686年10月2日)大津皇子はすぐに捕らえられ、翌日自宅にて自害しました。 

宮廷内では、皇后が裏で指示して、川島皇子に讒言(ざんげん)させたのではないかと疑いをもつ人も多く出ました。皇后はすぐに草壁皇子を天皇に即位させることができませんでした。

草壁皇子が亡くなり 皇后が即位し「持統天皇」

しかし、大津皇子の自害からまもなく、689年4月に草壁皇子が亡くなりました。この死亡が病気なのかどうかは不明です。後継者がいなくなったので、皇后みずから天皇になることになりました。これが持統天皇(じとうてんのう)です。(690年)

持統天皇の政策

持統天皇は、次々と政策を打ち出しました。新しい都の建設や民政においては、戸籍を整備しました。その他、律令国家としての整備など天武天皇の政策を引き継ぎました。宮廷詩人として柿本人麻呂を起用して、天皇をほめたたえる歌を詠ませました。外交関係では、新羅と国交を持ち、唐とは関係を持ちませんでした。

持統天皇の陰謀?高市皇子が突然死亡 

持統天皇は、かねてから自分の孫の軽皇子に譲位したかったのですが、太政大臣の高市皇子(たけちのみこ)が、天武天皇の長男であったので、簡単には行きませんでした。しかし、696年に高市皇子が突然亡くなりました。まだ42歳ぐらいでした。高市皇子は壬申の乱では一番の功労者でした。天武天皇を勝利に導いた実力を高く評価され、次の天皇の候補者として有力視されていました。これも持統天皇の陰謀と言われる所以です。

持統天皇の孫 軽皇子が即位「文武天皇」

こうして、持統天皇は、孫の軽皇子(15歳)に譲位することに成功し、文武天皇として即位しました。(697年)譲位した後も、持統上皇として、政務をとり続けました。702年12月に発病し、22日崩御しました。 

一貫して、我が子の草壁皇子、そして孫の軽皇子に皇位を継承させることに人生をかけ、陰謀説もからみながら、その役目も終えてようやく安心してあの世へと旅立ったのかもしれません。

⑨イケメンの阿修羅「藤原不比等」

次の「阿修羅」は、藤原不比等(ふじわらのふひと)です。

下級官人から一代で藤原氏の繁栄の礎を作りました。彼の性格は、遠謀深慮(えんぼうしんりょ)です。深く考えをめぐらせ遠い先の未来のことを見通して、着々と計画を進めていきました。

壬申の乱の時、藤原不比等(ふじわらのふひと)は、13歳でした。政治にはなんら関与していないということで処罰の対象とはなりませんでした。しかし、藤原氏の勢力は一掃され、不比等は下級官人の地位に甘んじなければなりませんでした。

⑴出生の秘密

「大鏡」という書物の中の記述として、天智天皇が妊娠中の女御(にょうご)を鎌足に下げ渡す際に、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったのです。実際に生まれたのが男子であったので、それが不比等だということになるのです。

⑵草壁皇子(くさかべのみこ)との出会い

草壁皇子(662~689年)は、天武天皇と持統天皇の皇子です。不比等にチャンスが舞い込んだのは、天武天皇の皇子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えた事から人生が開けてきました。

⑶持統天皇(じとうてんのう)との出会い

持統天皇(645~702年)は、天智天皇の皇女であり、その弟の天武天皇の皇后です。不比等は29歳の時、持統天皇から判事に任命されました。この時、不比等を持統天皇に引き合わせたのは、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)でした。

⑷県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の協力

不比等は、女性運が強かったようです。不比等の母親は、鏡王女(かがみのおおきみ)という絶世の美女でしたから、不比等はイケメンだったのかもしれません。そして、県犬養三千代の協力で、不比等の娘・宮子(みやこ)を草壁皇子の長男である文武天皇(もんむてんのう)の夫人にすることができました。そして生まれたのが、後の聖武天皇です。

⑸光明子(こうみょうし)の誕生(のちの光明皇后)

その後、不比等は県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)とも結婚し、光明子(後の光明皇后)が生まれました。光明子は、聖武天皇が皇太子の時に結婚しました。藤原不比等の思惑通りに事が運びました。 

⑩悲劇の阿修羅「長屋王」

文武天皇は、707年に崩御し、その後は母親である元明天皇が即位しました。文武天皇の長男である首皇子(おびとのみこ)は、当時7歳でした。藤原不比等は、首皇子をひきとり育てます。そして、不比等の娘の光明子と結婚させました。

藤原不比等の病死

首皇子は、714年、立太子されましたが、病弱なため天皇の即位は先延ばしにされました。藤原不比等の野望も今少し先となってしまいましたが、藤原不比等は、720年、病死しました。不比等に代わって政権の担当者となったのは、長屋王(ながやのおおきみ)でした。

長屋王の台頭

長屋王は、高市皇子の長男です。不比等が亡くなったので、皇族勢力の巨頭として、政界のトップとなりました。これを面白く思わなかったのは、不比等の4人の子どもたちでした。この4人を藤原四兄弟と言います。

首皇子が即位「聖武天皇」

ようやく首皇子が24歳になり、譲位を受けて聖武天皇として即位しました。(724年)長屋王も左大臣に昇進しました。しかし、聖武天皇とはそりが合わず、辛巳事件が起きますが、聖武天皇が折れた形で収まりました。しかし、藤原四兄弟との対立は、ますます深まりました。

長屋王家の中から皇位継承権を持たせる詔勅 

長屋王は、聖武天皇が病弱なことから、長屋王家の中から皇位継承権を持たせる詔勅を出させました。このことは、藤原四兄弟たちの危機感をふくらませる結果となりました。

あせりを覚えた聖武天皇は、光明皇后との間にできた基王(もといおう)を生まれて間もなく皇太子にします。しかし、基王は1歳になる前に亡くなってしまいました。終に藤原系の皇子がいなくなってしまい、藤原四兄弟は追いつめられてしまいました。「こうなったら、長屋王を始末するしかない」と考え、謀略をめぐらしました。

長屋王の自害

中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)が朝廷に、「長屋王は秘かに妖術を学び国家を転覆させようとたくらんでいる」と密告しました。当然これは嘘ですが、藤原四兄弟は、兵をだして長屋王の屋敷を取り囲みました。長屋王は、屋敷内で首をくくって自害しました。

長屋王のたたり 

邪魔ものがいなくなり、藤原四兄弟は、光明子を皇后に立て、政権を樹立することができました。しかし、737年に流行った天然痘にかかり、4人とも病死してしまいました。これを長屋王のたたりという噂が立ちました。 

⑪女傑・則天武后なみの「光明皇后」

光明皇后(701~760年)は深く仏教に帰依し、東大寺、国分寺の建立を夫の聖武天皇に進言したと伝えられています。東大寺には有名な盧舎那仏(大仏)が安置されています。

また貧しい人を助けるための施設として、「悲田院」、医療施設として、「施楽院」を作り、慈善事業に力を入れました。仏教の庇護者としていろいろな伝説が伝えられています。

⑴光明皇后の逸話

光明皇后が建てた法華寺では、病人治療のために浴室が設置され、「からふろ」と呼ばれました。サウナ風呂のような蒸し風呂のようなものだったようです。光明皇后は、「からふろ」で、千人の人々の汚れをぬぐうという願をたてました。ちょうど千人目が、ライ病患者でした。その膿を吸ってくださいと頼まれました。光明皇后は、勇気を出して重症のライ病患者の膿を吸ったところ、その病人が、たちまち光り輝く阿閦如来(あしゅくにょらい)に変わったという話が残っています。

⑵政治的な側面

仏教に厚く帰依した面は伝説的な逸話を残した光明皇后も政治的にはかなりの阿修羅となって権勢をふるいました。皇后となって以後は、藤原氏の子女が皇后になる先例となりました。娘の阿倍内親王の立太子やその後の孝謙天皇としての即位も推し進めました。また、組織を改編し紫微中台(しびちゅうだい)を設置し、皇太后の家政機関の体裁ですが、中身は光明皇太后の信任のもと甥の藤原仲麻呂が長官となり、政治、軍事の中心機関となりました。この機関は光明皇后が亡くなるまで続きました。これは唐の則天武后に倣って、高宗に代わり政治を行う垂簾政治(すいれんせいじ)を実現したものと見られています。

 

最後に

ここまでの長文をお読み頂き、有難うございます。
「阿修羅道」の後半は、飛鳥時代の血みどろの阿修羅の世界をご紹介しました。ようやく光明皇后によって、そのような阿修羅の世界も一息つくことになりました。光明皇后は、則天武后に倣い政治の中核となりますが、他方で仏教に厚く帰依をして、貧しいもの病気の人々を救うことも忘れませんでした。光明皇后は、現実世界が、すでに「阿修羅道」だということに気づき、人々を救うことに努めて、より良い現実社会を作ろうとしたのではないでしょうか。

「仏教における阿修羅道とは何か?分かりやすく解説します」の要点は

  • ①「阿修羅道」とは、戦闘の世界です
  • ②「阿修羅道」の4つの世界
  • ③「阿修羅」はもともと天界の神でした
  • ④日本の「阿修羅像」
  • ⑤飛鳥時代は「阿修羅」たちの世界
  • ⑥鬼より恐い中大兄皇子
  • ⑦壬申の乱で躍り出る逆転の阿修羅「天武天皇」
  • ⑧女傑の阿修羅「持統天皇」
  • ⑨イケメンの阿修羅「藤原不比等」
  • ⑩悲劇の阿修羅「長屋王」
  • ⑪女傑・則天武后なみの「光明皇后」

ということでした。
以上、最後までご覧頂き、有難うございました。


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